ニキズキッチン英語料理教室 ブログ

外国人の自宅で習う世界の料理教室

沖縄 避難物語

aera 緊急増刊 

東日本大震災 100人の証言「私たちはどう生きていけばいのか」に

証言をのせていただきましたm(__)m

いまだかつてない震災に人がどう感じ どう行動をとったのか

多方向の情報ソースが大変よくまとまっていて読み応えのある1冊でした。



話は変わりますが...

「沖縄 避難物語」


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同じ保育園のお母さんが今日北海道に向かいました。

出産がちかく「お水が不安」とのことで親族はまったくいないけれど、

地の利がある場所だから選んだそうです。

こどもの通う保育園はインターナショナルスクールではありませんが

下町ということもあり、比較的世界各国の子供たちが多く通ってきています。

その子供たちはまだ国に戻ったまま帰ってきていません。

そのひとたちもGW明けにはもどってくるとのお話を伺っています。




わたしはこの2週間避難をし、そして東京にもどってきました。

それを聞いて頷くひともいれば、大笑いする人もいます。

それは 良いことでも 悪いことでもなく

今回の震災は、各々が持っている情報のソースによって 

まるで受け取り方が違うんだなと実感をしました。




3月13日。

「みなさんに3月のお料理教室をお休みします」

という通達を出して数時間後、母から1本の電話がありました。

「余震の不安もあるし、原発の状況が怖い。この地を離れたい。」



わたしはあまり深くを考えず、カバンに2日分の洋服、携帯とお財布、お化粧道具をつめ

2人の子供を叩き起こし車にのりました。




夜中の首都高は あちこちが閉鎖されていて

そして未だかつてないほどに、車通りがなく、恐ろしいほど静かでした。


車のガソリンはぎりぎりでした。

しかし立ち寄る給油所すべてに「売り切れのため閉店しました」

のポスターが貼ってありいれることができません。

ようやく産業道路の裏にある「業務車」ばかりが立ち寄る

一軒の店で給油をすることができました。




「ここを離れられるならどこでもいい」

パニックになっている母を車に乗せ、空港に向かいました。




震災から3日後。

朝一番で到着した空港は、東京から避難をしようとしている人は誰もいなくそれは静かでした。



正直な話、みんなが余震や原発の状況にやきもきしているのに、

震災後すぐどこか移るわたしたちは

戦中だったら非国民と呼ばれる人種かもしれない。

そんな気持ち胸に沖縄に向かいました。



宿泊先に選んだのは恩納村にあるリゾートマンション型のホテル。

部屋は20畳位と広くキッチンがついて、ひとり3000円。

ただしキッチンはつかえなかったので、歩いて15分ほどの場所にある

道の駅「おんなの駅」に食事を買いに行っていました。

おにぎりが2個150円。100円で詰め放題の茹で野菜といった

沖縄のおばちゃんたちが手づくりした 手に取りやすい価格のものがたくさん置いてあります。


長期滞在を考えるならば栄養の面、費用の面でも食費が一番のネックになります。

そのためホテルに宿泊するなら食事無しで泊まれ

近くに道の駅などリーズナブルな食事処がある場所を選ぶか、

最初から家具付きのマンスリーを借りて自炊を念頭に置いておくと費用が抑えられます。




その後、国際通りにあるゲストハウスに居を移しました。

ここもリーズナブルで2人で3500円。夜になると屋上で

カレーやお好み焼きなどの食事をブッフェで振る舞ってくれました。

これが功を奏してたくさんの人たちと出会い話し合いをすることができました。

恩納村にいたころは、まだ避難をしてくる人がほとんどいなかったのですが、

国際通りに移った3/20前後はぞくぞくと東北や関東(東京を中心にした主に全域)

から人々が訪れ、ホテルはすでに満室になっていました。



夜、屋上で食事をとりながら様々な人に出会い状況を話し合いました。

小さな子供を連れたお母さんもしくはご夫婦。彼氏がヨーロッパ人のカップル。

もしくは単独行動の欧米人。といった組み合わせがほとんどでした。


岩手から来られたカップルもいました。

ちょうどニュースで宮城、福島、岩手の人に家を行政が貸し出してくれることが決まった時期で、

「よかったね」と話をすると 

「でもね わたしたちみたいに原発が怖いから という理由で逃げてきてる人には家を貸してくれないの。

全壊または半壊の「罹災証明書発行」というのを住んでいた地域で発行してもらった人が 

それをもって沖縄のお役所に行きさらに抽選なのよ。」


「当選が明確でなくても沖縄に直接いかなければいけないんだ。

でも全壊または半壊した人は中々すぐに場所をうつれないよね。

壊れた瓦礫の下の大事なものを拾いたいだろうし、

あとは津波の被害の大きかった行政は なかなか罹災証明書発行まで まわらないでしょう。

かといって怖いだけでは貸してほしいけれど先方は家は貸しづらいんだろうね」



すると岩手から来たドイツ人がテーブルに来て

「日本は放射能の拡散シュミレーションをだしていないでしょ。

(このブログを書いた4/6時点では、だされていますが3/20頃はその情報さえもしりませんでした)

風向きによっては日本全土に放射能は拡散されるんだよ。なんで出さないんだろう。

僕が子供のころチェルノブイリの事故があって、それはそれは大変だったんだ。

それをずっとみてきているから、なんでみんな離れないかが信じられないんだよ。

政府が退避勧告を出さなくても、自分で危ないと思った人は周りの目を気にせず、

移ったほうがいいんだよ。」


NYから来たアメリカ人が

「僕はニュースを見ているけれど、東京は安全だと思うよ。」


茨城から来た赤ちゃん連れのお母さんが

「私の地域はもどっても水に自信がないから、沖縄で家具付きの賃貸を借りることにしたわ」

ほぼ毎日のように世界中のニュースをネットで検索をして、みんなで話し合いをしました。





昼間は子供を連れて沖縄の学童クラブの門をたたきました。

そして短期間ですが沖縄の子供たちの放課後に仲間入りをしました。


場所は浦添市にある「港川学童クラブ」という場所です。

外国人住宅が集まった港川地区の一角にあり、

もともとアメリカの人たちが住んでいた可愛いおうちの中で

子供たちが元気よく遊んだり勉強をしたりしています。

ここに集っているのは港川小学校のお子さんたちですが

「門をたたけば誰でも1時間でも利用をすることができますよ。」

と教えてくださいました。

おかあさんと一緒に学童で過ごす幼児または小学生は2時間300円 

幼児単独は1時間600円

ジュースとおやつ付。

●Kids&学童cafe チャイルドスペース
浦添市港川2丁目17番地7号
港川沖商住宅 15号室
tel/fax : 098(927)7714
http://csp.d2.r-cms.jp/

そして東京に3月の終わりに戻ってきました。

観光とは違う沖縄での生活は、人との出会いそして助け合いによって日々が成り立っていました。

最初に乗ったタクシーで「沖縄で暮らしてもなかなか本土の人と沖縄の人は友達にはれないよ」

と念を押されたけれど、実はそんなことは全然なくて。


定食を頼んだら、かき揚をおまけにお皿いっぱいに出してくれた定食屋のおばちゃん。


東北の震災の話を聞いてくださった後、

義援金のための野菜をうりはじめてくださった道の家のオーナー。



子供を引き受けてくれた地域の学童の先生たち。



夜にみんなのためにご飯を出しくれたドミトリーホテルのお兄さんお姉さんたち

たくさんの思いがそこにはつまっていました。



そして同じように「怖い」という思いで集まってきた人たち。

観光のような笑顔はありませんでしたが、たくさんのことを話し行動を

ともにしたことは貴重な経験でした。



話は変わりますが、「空き家バンク」というシステムがあります。

日本には700万件の空き家があるそうです。

自分たちが亡くなったら子供に渡したいから、家具を動かせないから、

知らない人に貸すのはちょっと。



そんな誰にも貸し出されてなかった空き家が行政やNPOの人たちの手で、

被災者の方のために貸し出しをする手配が整えられはじめました。


避難所生活から離れたい。

けれど不動産屋で借りると費用が心配だ、

ホテル住まいは費用が高くつく、頼れる親戚がいない。


そんな人たちはこの仕組みを利用してもいいかもしれません。